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偕楽園焼 金彩寿字文盃 6客(江戸時代19世紀、高2.7cm/口径6.4cm)六客一揃えの盃で、器の内側には中央に金彩で「寿」の文字をあらわし、その周囲に唐草文をめぐらせている。器の外側には、菊と水仙を色絵で描き、高台の周囲にも唐草文をあしらっている。菊は秋、水仙は冬から春にかけて咲く花だが、菊は長寿、水仙は「仙」に通じることから、どちらも目出度い主題だった。また、唐草文の蔓も連続性や子孫繁栄を象徴している。器の底の高台内に金彩で「偕楽園製」と記され、江戸時代後期に和歌山城下で焼かれた偕楽園焼とわかる。

偕楽園焼 金彩寿字文盃 6客(江戸時代19世紀、高2.7cm/口径6.4cm)六客一揃えの盃で、器の内側には中央に金彩で「寿」の文字をあらわし、その周囲に唐草文をめぐらせている。器の外側には、菊と水仙を色絵で描き、高台の周囲にも唐草文をあしらっている。菊は秋、水仙は冬から春にかけて咲く花だが、菊は長寿、水仙は「仙」に通じることから、どちらも目出度い主題だった。また、唐草文の蔓も連続性や子孫繁栄を象徴している。器の底の高台内に金彩で「偕楽園製」と記され、江戸時代後期に和歌山城下で焼かれた偕楽園焼とわかる。

偕楽園焼

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瑞芝焼 青磁菊透文手焙 江戸時代後期 和歌山市立博物館 和歌山城下の鈴丸で焼かれた瑞芝焼は、偕楽園焼・南紀男山焼と並んで近世紀州三大窯の一つに数えられる。諸窯の写しが多いが、精美な青磁製品が知られる。

瑞芝焼 青磁菊透文手焙 江戸時代後期 和歌山市立博物館 和歌山城下の鈴丸で焼かれた瑞芝焼は、偕楽園焼・南紀男山焼と並んで近世紀州三大窯の一つに数えられる。諸窯の写しが多いが、精美な青磁製品が知られる。

偕楽園焼 交趾写二彩寿字文花生 典型的な偕楽園焼の二彩寿字文花生である。釉薬はやや薄いが、内面全体にも紫釉がかかる。底面高台内に陰印刻銘で「偕楽園製」(楷書体)とある。箱書によれば、紀伊藩主からの拝領品であるということである。この種の交趾写の作品は、西浜御殿内の窯で製作されたものか、このような銘のある破片が発見された南紀男山窯もしくは南紀高松窯で製作されたものかは、判別することができない。

偕楽園焼 交趾写二彩寿字文花生 典型的な偕楽園焼の二彩寿字文花生である。釉薬はやや薄いが、内面全体にも紫釉がかかる。底面高台内に陰印刻銘で「偕楽園製」(楷書体)とある。箱書によれば、紀伊藩主からの拝領品であるということである。この種の交趾写の作品は、西浜御殿内の窯で製作されたものか、このような銘のある破片が発見された南紀男山窯もしくは南紀高松窯で製作されたものかは、判別することができない。

和歌浦天橋立図屏風 江戸時代中期 紙本著色 各隻縦93.8cm/横272.0cm 6曲1双 和歌浦と天橋立を一双に描いた名所図屏風である。和歌浦隻は、画面左に紀三井寺、それに向かい合わせて右に東照宮を描く。中央下、砂州の岩山に抱かれた社殿は玉津島神社であろう。右端下に和歌山城、右端上には天満宮を添えている。海と陸との参詣人の描写も細かく興味深い。一方、天橋立隻では、雪舟筆「天橋立図」(国宝)とほぼ同様の視点で、中央から右寄りに天橋立を配置し、その左に智恩寺、画面の右端に籠神社・成相寺を描く。

和歌浦天橋立図屏風 江戸時代中期 紙本著色 各隻縦93.8cm/横272.0cm 6曲1双 和歌浦と天橋立を一双に描いた名所図屏風である。和歌浦隻は、画面左に紀三井寺、それに向かい合わせて右に東照宮を描く。中央下、砂州の岩山に抱かれた社殿は玉津島神社であろう。右端下に和歌山城、右端上には天満宮を添えている。海と陸との参詣人の描写も細かく興味深い。一方、天橋立隻では、雪舟筆「天橋立図」(国宝)とほぼ同様の視点で、中央から右寄りに天橋立を配置し、その左に智恩寺、画面の右端に籠神社・成相寺を描く。

偕楽園焼 交趾写黄白釉寿字文花生 江戸時代後期 陶磁器 口径13.4cm,高さ29.7cm 1口  偕楽園焼の典型的な交趾写花生のスタイルで、文様の構成も同じであるが、外面の「壽」字の部分のみ白釉とし、その他の部分は黄釉で染めている点が珍しい。ただし、釉薬が薄いため、轆轤による調整痕を観察できる。また、浮き彫りとなっている文様線は、強く浮き出ており、一般的な二彩の作品より、文様の輪郭をはっきりと見ることができる。底面には、陰印刻銘で「偕楽園製」とある。

偕楽園焼 交趾写黄白釉寿字文花生 江戸時代後期 陶磁器 口径13.4cm,高さ29.7cm 1口 偕楽園焼の典型的な交趾写花生のスタイルで、文様の構成も同じであるが、外面の「壽」字の部分のみ白釉とし、その他の部分は黄釉で染めている点が珍しい。ただし、釉薬が薄いため、轆轤による調整痕を観察できる。また、浮き彫りとなっている文様線は、強く浮き出ており、一般的な二彩の作品より、文様の輪郭をはっきりと見ることができる。底面には、陰印刻銘で「偕楽園製」とある。

三楽園焼 更紗手兜鉢 江戸時代後期 口径18.0cm/高さ4.7cm 三楽園焼は、新宮城主・水野忠央(ただなか、1814~65)が、南紀男山窯や江戸下屋敷内で焼かせたやきものである。この資料は、浅黄釉に更紗風の草花模様を描いた典型的な作品で、底面に印刻銘で「三楽園製」とある。なお、兜鉢とは伏せると兜の形に似ているものをいう。水野忠央は、幕府から監視役として配された御付家老だったが、文政6年(1823年)に紀ノ川流域で大規模な百姓一揆が勃発した際、幕府に讒言を行い、藩主徳川治宝を退位させた。また、弘化3年(1846年)、斉順の死去に際し、治宝は西条藩から松平頼学を新藩主に迎えようとしたが、水野忠央は将軍•徳川家慶が忠央の妹である側室•お琴との間にもうけた田鶴若を擁立しようと工作し頓挫させた(結局、紀州藩士の反対によって、斉順が当主になっていた清水家から斉彊を新藩主に迎えた)。一級の文化人かつ藩政改革を果敢に推し進めた徳川治宝に、水野忠央が対峙した一つの表れが三楽園焼である。治宝の死後、御附家老の水野忠央と安藤直裕によって治宝側近らは粛清され、後の紀州徳川家没落の遠因となる。

三楽園焼 更紗手兜鉢 江戸時代後期 口径18.0cm/高さ4.7cm 三楽園焼は、新宮城主・水野忠央(ただなか、1814~65)が、南紀男山窯や江戸下屋敷内で焼かせたやきものである。この資料は、浅黄釉に更紗風の草花模様を描いた典型的な作品で、底面に印刻銘で「三楽園製」とある。なお、兜鉢とは伏せると兜の形に似ているものをいう。水野忠央は、幕府から監視役として配された御付家老だったが、文政6年(1823年)に紀ノ川流域で大規模な百姓一揆が勃発した際、幕府に讒言を行い、藩主徳川治宝を退位させた。また、弘化3年(1846年)、斉順の死去に際し、治宝は西条藩から松平頼学を新藩主に迎えようとしたが、水野忠央は将軍•徳川家慶が忠央の妹である側室•お琴との間にもうけた田鶴若を擁立しようと工作し頓挫させた(結局、紀州藩士の反対によって、斉順が当主になっていた清水家から斉彊を新藩主に迎えた)。一級の文化人かつ藩政改革を果敢に推し進めた徳川治宝に、水野忠央が対峙した一つの表れが三楽園焼である。治宝の死後、御附家老の水野忠央と安藤直裕によって治宝側近らは粛清され、後の紀州徳川家没落の遠因となる。

偕楽園焼 灰釉平茶碗 銘「新樹」(口径15.6cm/高さ6.3cm、和歌山県立博物館)。平茶碗とは、茶の湯で、夏季おもに風炉を用いる際に使う、皿より深めの茶碗をいう。この資料は、草木灰を主成分とした釉薬を使用しており、淡緑色に美しく発色している。高台脇に、小文字の「偕楽園製」という陰印刻銘がほどこされている。収納する桐箱には、紀伊徳川家所蔵票が貼られており、またこの茶碗を「新樹」と名付けた、治宝側近の伊達千広(1802~77)の箱書がある。

偕楽園焼 灰釉平茶碗 銘「新樹」(口径15.6cm/高さ6.3cm、和歌山県立博物館)。平茶碗とは、茶の湯で、夏季おもに風炉を用いる際に使う、皿より深めの茶碗をいう。この資料は、草木灰を主成分とした釉薬を使用しており、淡緑色に美しく発色している。高台脇に、小文字の「偕楽園製」という陰印刻銘がほどこされている。収納する桐箱には、紀伊徳川家所蔵票が貼られており、またこの茶碗を「新樹」と名付けた、治宝側近の伊達千広(1802~77)の箱書がある。

偕楽園焼 向付 永楽保全(1795〜1854) 保全は十一代永楽善五郎。十代・了全の養子で「永楽家中興の祖」と呼ばれる人物。茶陶の世界では仁清、乾山とも並び称され、傑出した陶技が遺憾なく発揮されている。

偕楽園焼 向付 永楽保全(1795〜1854) 保全は十一代永楽善五郎。十代・了全の養子で「永楽家中興の祖」と呼ばれる人物。茶陶の世界では仁清、乾山とも並び称され、傑出した陶技が遺憾なく発揮されている。

色絵寿星立像 仁阿弥道八 (1783~1855) 江戸時代 高さ72.5cm 仁阿弥道八(二代高橋道八)作の寿星像である。内部に「法橋仁阿弥造」の彫銘、杖は後補。初代・高橋道八の次男として生まれ、兄の早世により29歳で家督相続、京•五条坂に開窯。奥田頴川、宝山文蔵らのもとで修行を積み、青木木米らと共に京焼の名手として知られた。色絵は「尾形乾山、野々村仁清の再来」とまで称され、茶碗などの食器や容器ばかりではなく、生気のこもった精彩な人物や動物などの陶像や磁器像にも名品が多い。仁和寺宮より「仁」、醍醐寺三宝院宮より「阿弥」の号を賜り、出家名「仁阿弥」を称する。45歳の時に紀州藩御庭焼「偕楽園焼」の立ち上げに参画。以後、高松藩御庭焼(賛窯)、薩摩藩御庭焼(磯御庭焼)、角倉家御庭焼(一方堂焼)、西本願寺御庭焼(露山焼)などの立ち上げにも参画。天保13年(1842年)、伏見に隠居するも、以後も「桃山窯」を開窯し作陶を続けた。

色絵寿星立像 仁阿弥道八 (1783~1855) 江戸時代 高さ72.5cm 仁阿弥道八(二代高橋道八)作の寿星像である。内部に「法橋仁阿弥造」の彫銘、杖は後補。初代・高橋道八の次男として生まれ、兄の早世により29歳で家督相続、京•五条坂に開窯。奥田頴川、宝山文蔵らのもとで修行を積み、青木木米らと共に京焼の名手として知られた。色絵は「尾形乾山、野々村仁清の再来」とまで称され、茶碗などの食器や容器ばかりではなく、生気のこもった精彩な人物や動物などの陶像や磁器像にも名品が多い。仁和寺宮より「仁」、醍醐寺三宝院宮より「阿弥」の号を賜り、出家名「仁阿弥」を称する。45歳の時に紀州藩御庭焼「偕楽園焼」の立ち上げに参画。以後、高松藩御庭焼(賛窯)、薩摩藩御庭焼(磯御庭焼)、角倉家御庭焼(一方堂焼)、西本願寺御庭焼(露山焼)などの立ち上げにも参画。天保13年(1842年)、伏見に隠居するも、以後も「桃山窯」を開窯し作陶を続けた。

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