知花花織
古くから、旧美里村(現在の沖縄市の知花、登川、池原等の地域)で盛んに織られていた知花花織は、経浮花織の技法を駆使した紋織物の一種で、19世紀後半には既に技術・技法が確立し、明治時代以降も祭事用のウッチャキ(上着)、ティサージ(手巾)、ドゥジン(胴衣)、着物などが織り続けられていました。第二次世界大戦で壊滅的な打撃を受けましたが、知花花織の衣装は、五穀豊穣や無病息災を祈願する伝統行事(ウスデーク)で
八重山上布
17世紀初めに現在の鹿児島県西部にあたる薩摩に琉球が侵攻され、課せられるようになった人頭税のために織ることを強制されたことが、八重山上布の技術の向上につながりました。 人頭税廃止後の明治の終わりに組合が結成され、産業としてたいへん盛んになりました。しかし、昭和の大戦で一時途絶えてしまい、戦後は数名でほそぼそと続けられていました。
八重山ミンサー
アフガニスタンから中国を経て伝わり、王府時代の16世紀初め頃、木綿布(ミンサー)の使用が記されていることから、 この頃すでに八重山地方でミンサーが織られていたと考えられています。また、八重山ミンサーの名前は綿(ミン)のせまい帯(サー)からきたと言われています。通い婚の時代に女性から意中の男性に贈る習わしがあり、5つ4つの模様は「いつの世までも変わらぬ愛を誓った物」と言われています。
喜如嘉の芭蕉布
芭蕉布は、13世紀頃にはすでに作られていたと考えられますが、人々の間に広まったのは近世になってからのことです。 家の庭や畑に芭蕉の木を植え、主婦や娘たちが自家用の布を織っていました。19世紀に入ると絹や綿が出回るようになりましたが、あいかわらず芭蕉布は人々に親しまれていました。この伝統を受けついでいる喜如嘉の芭蕉布は、昭和49年に国指定の重要無形文化財の総合指定を受けています。
首里織
14~15世紀の琉球王国は、東南アジアや中国と盛んに交易を行い、その交流により織の技術を学びました。その後幾百年の年月を積み重ね、沖縄の気候風土に育まれた、様々な個性を持つ琉球織物が生み出されました。 その中でも、首里王府の城下町として栄えた首里では、王府の貴族、士族用に色・柄ともに究極まで追求された、格調の高い、悠々として麗美な織物が織り継がれ、現在に至っています。
琉球絣
沖縄の織物の始まりは、14~15世紀の中国や東南アジアとの交易がきっかけとされています。 南方系の絣から生まれた幾何学文様が主体となっています。本格的な織物の産地となったのは大正時代です。沖縄独自の伝統の技術・技法が行き渡り、現在に至っています。
読谷山ミンサー
始まりは読谷山花織と同時期で、南国の影響が強い製品です。一時、生産が途絶えてしまいましたが、昔のことを良く知っているお年寄りによって復活されました。 ミンサーとは細い帯を意味しています。
読谷山花織
花織独特のデザインから、南方から渡って来たものと考えられていますが、その時期は不明です。 しかし朝鮮への贈り物や、ジャワから琉球王国への贈り物として記録が見られるとこらから、15世紀には生産されていたと見られます。当時は琉球王朝のための御用布として、読谷住民以外の一般の人々は着用できなかったと伝えられています。
宮古上布
今から400年前、琉球の貢物を載せた船が台風に遭い、沈没しそうになったところに、ちょうど乗り合わせていた宮古島の男が、勇敢に海に飛び込み、船の壊れた所を直して、乗組員全員の命を救いました。 琉球王がこの功績を称えてその男を問切坊主としたところ、その妻は喜び、心を込めて布を織り王に献上しました。これが宮古上布の始まりだと伝えられています。
久米島紬
14世紀頃、南方貿易によりインドをルーツとする製織法が伝えられました。 また、中国から養蚕の技法等を習い、島民に教えたのが織物の始まりと伝えられ、日本の紬の発祥の地と言われています。江戸時代初期から明治時代の後半までは、人頭税として紬織物を代納していました。
久留米絣
19世紀初めに、一切れの木綿の古い布のかすれた糸をヒントに、12歳の少女によって始められました。 その後、現在の福岡県南西部にあたる久留米藩が産業としての奨励したことに加えて、絵絣技法や、小絣技法といった改良工夫によって、久留米絣は、大柄小柄絣、そして絵絣等、他に類のない特徴的な技術を持った木綿絣産地として発達してきました。
博多織
鎌倉時代、博多商人が僧侶とともに宋の時代の中国に渡り、織物技術を持ち帰ったのが始まりです。 江戸時代になると、現在の福岡県の大部分にあたる筑前国の領主であった黒田長政が博多織を毎年幕府に献上したことから「献上博多」と呼ばれました。
阿波正藍しじら織
阿波しじら織は、18世紀の末に阿波地方で盛んに織られていた「たたえ織」という木綿縞に、明治時代の初めに、改良が加えられて織られるようになったものです。 改良のきっかけについては色々な説がありますが、いずれの説も、濡れた布地を、そのまま日光で乾かしたところ、布の面に自然な面白い縮が出来たのを発見したのがきっかけだと言われています。
弓浜絣
鳥取県西部の弓ガ浜地方では、17世紀の後半に砂地を利用した自家用としての綿の生産が始まりました。染料のもととなる藍玉の問屋が設けられた18世紀の中頃には、綿を原料とした繊維である木綿の生産が増加しました。 19世紀の初めには米子、弓ガ浜で、浜の目絣と呼ばれる絵絣が農家の女性たちによって織られるようになりました。